『 光陰 』は杉本博司の《 海景 》にインスパイアを受けた作品群である。
《 海景 》をはじめて目にしたとき、私は理由も分からず涙を流した。そして全身の細胞が一つ一つが震え立つような感覚に襲われた。それから幾分かの年月が過ぎても、私はその衝撃的な体験の訳を見つけることができないでいた。
『 光陰 』はその理由を見つけるために制作された。初期の作品『 光陰 I 』『 光陰 II 』は、特に《 海景 》に構図や構成、明暗が酷似している。そして写真の持つ画面の端から端までピンと張り詰めた雰囲気を、そのまま描写することで理由を掴もうと試みた。
同時に、私は自身のアイデンティティにも理由があるのではないかと考えた。そこで自分自身のルーツ(自分史)を探る活動も並行して進めた。
自身のルーツを探る中で、私は母方の家系からアイヌ民族の血を継いでいることが分かった。私がこれまでにその血筋の事実を知らずに生きてきたのは、母方の家系の配慮であったのかもしれない。
アイヌ民族は、その生活の拠点である北海道という立地から、海との関わりが深い。そして民族として苦難の歴史を辿っていることは言うまでもない。自覚のなかった私がその歴史を語ることは許されない。しかし、もしも海景を目にしたときのあの衝撃的な感覚の由縁が、私の血筋にあったのなら、私の中で全てが繋がったように思われた。私の祖先が見た海景と同じ《 海景 》を、私も見たのだ。
この事実を知り、私は『 光陰 III 』を制作した。画面中央の絵画には、今も昔も変わらない普遍的な景色が描かれている。絵画を囲う風化した壁のようなものは、小窓をモチーフとした。その素材には実家の一部分を用いている。
時間によって風化し、意識や記憶は薄れ忘れてゆく。これは避けられないことだ。そのような時間の中にあっても、人は普遍的な景色を通して過去と繋がり、忘れかけていた本能に近い記憶を呼び覚ますことができるのではないだろうか。私にとってその景色は海景であった。そして記憶が呼び覚まされたとき、私は生命の奇跡のような壮大な繋がりを想い起こし、生きることへの実感とその美しさを感じた。
このような背景のもと、今回展示させていただいた『 光陰 』シリーズの三作品は制作されている。私自身の衝撃的体験、私自身のルーツ、アイデンティティといった極めて私的な問題を出発点としており、他者との共感や共有という段階にはまだ不十分であることは痛感している。今後、いかにして私の体験を共感や共有へと繋げてゆくのかを課題としたい。
at 喫茶ギャラリーgeki
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